「言葉」という脆いツール

結論

言葉は脆弱ツールであることを認識した上で使う。

話せばわかると言われる。しかし、言葉は誤解を生み、争いを生じさせる。

 

話し手も、聞き手も、言葉を使いこなす力量も警戒心もない。

言葉それ自体に潜む危険性を認識している人も少ない。

 

確かに「言葉」は相手を勇気づける。

一方で、相手を自殺に追い込む殺傷力もある。

 

文化、環境、性格等で言葉の受け取られ方が違うのだから、そもそも話し手の意図は正確に伝わらない。伝わらないからこそ、せめて聞き手は相互尊重の精神で聞かなければいけないが、それができない。

 

多くが欲望にしたがって都合のいいことを言う。そんな言葉など騒音にすぎない。言葉は散弾銃のように飛び交い多くの心を貫通している。言葉によって流された血の海は目には見えない。

 

言葉を使わないパラドックス

確かに言葉は便利な道具だが、最低限のマナーとして、警戒心を持って使うべきだろう。

 

しかし悲しいかな、警戒して言葉を慎んでいると、今度はその態度が誤解を発生させことがある。

 

その誤解を解こうと、言葉を使うとまた次なる誤解と争いが生まれる。まったく、困ったものだ。

 

誤解が生じた時にいちいち釈明しない人も多い。だから誤ったイメージが形成されていることも多い。一旦イメージが形成されると、釈明が言い訳にしか聞こえないところが言葉という道具の限界でもある。

 

誤解された言葉の方が真実になってしまっている茶番劇。

 

また相手を気遣い、あえて口を閉ざす場合もある。その閉ざすことが相手にネガティブな印象を与える場合もある。ジレンマである。

 

いずれにせよ、自分の正当性を主張したところで人間は一人では生きていけない。

 

言葉による誤解や争いが無くなる時

言葉による争いが無くなるのは、我を捨てた時だろう。

 

我がなければ、主張すべきものはない。だから言葉からトゲが取れる。

 

言葉にトゲがなければ争いも起きにくい。

 

奇しくも、我を捨てることで言葉は不要になっていく。

 

おそらく、高度知的生命体は言葉という脆弱ツールは使っていないだろう。

 

意味がダイレクトに伝わる感情にテレパシーを介在させコミュニケーションをとっているだろう。

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