幸せの定義
「幸せになりたい……」と、よく耳にする。
勉強も、仕事も、結婚も、お金を稼ぐのも、すべて「幸せ」のためにやっているようにも、見える。
幸せってなんだろう。
まず、今、幸せな人って誰だろう。
経済力=幸せ?
国民総幸福度という幸せ調査がある。
デンマークやブータン王国がよく1位になる。
デンマークは先進国で、ブータンは、それほど経済的に発展していない。
が、それぞれの国の人が、自分の事を幸せと考えている。
ということは、「経済」と「幸せ」は、無関係に思える。
煩悩が無くなれば幸せか?
人の煩悩は108あると言われているが、これらすべての悩みが無くなったら幸せになれるだろうか?
悩みがあっても幸せそうな人はいるであろうし、悩みがないという悩みもでてきそうだ。
煩悩と幸せは、きっと無関係だろう。
後悔のしない生き方ができれば幸せか?
死に際に後悔しない生き方ができれば幸せか?
オーストラリアの看護士Bronnie Ware氏が、死ぬ直前の患者の後悔をまとめた。
① 自分自身に忠実に生きなかったこと
② 家族との時間をあまりとれなかったこと
③ 自分の気持ちを表す勇気を持てなかったこと
④ 友人関係を続けなかったこと
⑤ 自分をもっと幸せにしてあげられなかったこと
これらすべて実行していたら幸せになっていたのだろうか?
死ぬ間際の人が言っているのだから、「確からしい」とも思えるが、個人的には、どうも納得できない。
上記は、しなかった後悔ばかりだが、してしまった後悔もたくさんあるはずだ。
ミルキヅクも死にそうな経験をしたことがあったが、その際、瞬時に後悔したことは、母に孝行できていないという感情だった。
ただ、その後悔の気持ちと、幸せは別だった。
社員満足度の高い会社で働く人は幸せか?
かつて、社員満足度1位を取った株式会社EC studioは、幸せを「心の豊かさ」と定義した。そして、心の豊かさを次のように説明した。
① 経済的豊かさ
② 時間的ゆとり
③ 円満な人間関係
お金持ちでも不幸せそうな人も多いし、時間を持て余してつまらなそうにしている人も多い。
社員満足と幸せに、関係性はあるだろうか?
感動があれば幸せか?
ソフトバンクの孫正義社長は、【新30年ビジョン】の中で、幸せについて次のように伝えた。
① 見る感動
② 学ぶ感動
③ 遊ぶ感動
④ 出会う感動
⑤ 愛し合う感動
感動があれば、幸せか?
感動は、一時のモノ。感動が無い平凡な生活は不幸せなのか?
人から強く必要とされたら幸せか?
ある女性社長は、「幸せ」を次のように定義していた。
① 褒められること
② お役立ちができること
③ 人から必要とされること
④ 愛すること、愛されること
たしかに、一見すると、幸せになれるような気もしてくる。
幸せって何?、あっ、ひょっとして
しかし、ずっと、幸せの事を考える中で気付いた事があった。
それは、幸せとは「なる」ものではなく、「である」という状態の事だと。
よく人は「幸せになりたい」という。
「なりたい」と考えてしまうから、幸せのために疲れてしまうのだ。
「なる」は動詞で、どうしても、「方向」と「距離」と「時間」の要素を持ってしまう。
そうすると、出てくるのが、ビジネスでも流行りの、
方向=ビジョン
距離=目標設定
時間=時間管理
の3点セットだ。
そして、「ビジョン」の元、「夢」や「希望」という言葉を実現するためのストイックな行動で疲弊している社会人は多い。
自ら立てた目標設定に翻弄され、ピリピリと刺々しく生きている人も多い。人の優しさを見る余裕すら無くなっている。
はたまた、1分単位での行動管理が求められるようなタイムマネジメントに疲れ切っている社会人も多い。
マズローは、人の欲求を、生存、安全、愛と所属、認知、自己実現でまとめたが、これらは、「もっともっと」という、果てしない感情が入る底なし沼だ。
もっと生活に余裕を、もっと愛を、もっと認められたい。もっと自分らしくありたい。
果てがない。
幸せになりたいという、「なる、ならない」軸で幸せを捉えようとすると、そこには、必ず、「時間軸」と「条件」が発生する。
幸せになるまで、xxをしなければいけない。
幸せになるまで、xxの時間がかかる。
条件付き幸せ観だ。
頑張っている時間は、「幸せでない」とも言えてしまう。
なりたいという動詞で幸せを捉える多くの人は、未来の幸せを信じて、歯を食いしばって今を生活している。
しかし、たとえ、幸せを掴めても、まもなく、すりぬけて行くだろう。
幸せは快適な感情のことではない
よく考えれば、多くの人が「幸せ」を「快適度」という感情的で捉えている。
国民総幸福度は、実は、国民総快適度と言いかえることができる。
幸せとは
では、結局、幸せとは何か。 それは、ずばり、
「命がある」という状態の事だ。要するに命あることそれ自体。
人生で起きる酸いも甘いも苦みも渋みも、すべてがうまみ。命があるからこそ味わえる。究極の定義かもしれない。
では、死んだら不幸か?と屁理屈もあるだろう。
ミルキヅクの答えは、「死んでみなければわからない」と言いたい。
ハッピーかもしれないし、そうでないかもしれない。または、それを定義する必要のない時空であるかもしれない。それは、実際に死んで骨になってみないとわからない。
「幸」という漢字の由来
ところで、「命ある事それ自体=幸せ」と、腹に落とし込めた後、「幸せ」の「幸」という漢字の由来を聞いた時に、妙に納得してしまった。
「幸」は、手かせ足かせを意味したそうだ。
兵士は戦争で負けると奴隷になる。奴隷は、クサリに繋がれれば生き残り、処刑されれば死ぬことになる。兵士の運命は、生と死の二者択一。昔の人は、命が残ることを「幸せ」と表した。
「命=幸せ」と直感していたのだろうか…。
いや、待てよ。
命=幸せと捉えていただが、どうも違う。
そもそも、「死」は人間が作った概念。
5感によって生きているという実感が生まれる。視覚や聴覚や味覚などの5感がなければ、そもそも、自分という認識もないだろう。現に、体は存在するのに、深い眠りの中では自分という認識はない。
自分という認識がなければ、そこから生まれる感情もない。
感情が生じなければ、幸せと、不幸といった想念に囚われない。
幸せとは、そういった囚われからの解放なのかもしれない。
幸せとは、「5感が発動している最中でも心が何事にも囚われていない状態」。