前回までに、奇跡の存在である我々の生き方の指針として、1.『役割分担を果たす』ことと、2.『技術を進化させること』について述べた。最後の指針が3.『相互尊重』だ。
世の中の争いは無知から起きると思われている。しかし、実際は、強すぎるこだわりから発生する。自分のこだわりが侵された時、衝突が起きるのだ強すぎるこだわりは「自我」にも近い性格だ。この自我を捨てるために、厳しい修行を行った者も多い。
ミルキヅクの理念実現書も、「理念」というモノが誤解されると、理念同士の争いが発生することが容易に想定できる。自分の理念に対する強すぎるこだわりで相手の理念を否定することだ。
3番目の指針として、『相互尊重』というキーワードを使っているが、本当のキーワードは『強すぎるこだわりを捨てる』だ。『相互尊重』という言葉は、「相手」と「自分」という前提がある。しかし、人類皆兄弟とか、生命の大元は一緒と言われている通り、周りは自分を映し出す鏡だ。相手や自分という概念も、自分のことを自分と認識できる高度な知識があるがゆえに知覚できる疑似的なものだ。権利概念も人工物にすぎない。
自然の摂理に適っていない強すぎるこだわり
自然の摂理は、もともと、自他を設定していない。
「相手を尊重する」と言えば聞こえが良いが、一方で、自分も認めてほしいという気持ちの裏返しでもある。それはギブアンドテイクであり、尊重という言葉の裏に偽善が見え隠れする。自然の摂理はギブアンドテイクではなく常に与えることだ。ギブオンリーだ。
そもそも、相手を尊重するという小生意気なことを言わなくとも、自分の強すぎるこだわりをコントロールできれば、衝突など起きず理念は共存し合うのだ。
例えば、自分が絶対だと信じている正義があるとする。自分の中に絶対正義がある場合は相手の哲学との間で衝突を生む。強すぎるこだわりは、「自分」という過度の自己認識の表れであり、自然の摂理には適っていない。自然の摂理には、そもそも自他などないからだ。
コミニュケーションとは自分の心との対話
コミニュケーションは難しい。本音を伝えても相手によって受け取り方は千差万別だ。本心が誤解される場合も多い。誤解を回避するために黙秘すると、また別の誤解を生み、不信感を生む。不信感は偏見となり、偏見は差別となる。差別は無視に繋がり、無視は誤解を加速させる。誤解は根拠なき悲しき争いを生む。
すべて自分の中の強すぎるこだわりが原因だ。親とは絶対口を利かない人もいる。一度嫌になったら二度と口を聞かない人もいる。すべて、自分の中の強すぎるこだわりを侵されたからだ。
生きていれば、勘違いや誤解は当たり前のように発生する。策略によって濡れ衣を着せられたりもする。しかし、自分の中の強すぎるこだわりを解放できれば、真意は理念に共感した者が代弁してくれる。あえて、自分から真実を主張する必要はないのだ。真実は理念に基づく行動が代弁をしてくれるのだ。
こだわりとは何か?
こだわりとは、自我のことであり、自我とは欲である。欲は生への執着から発生する。生の執着は死や時を意識するからこそ起きる。
「死とは」や「命とは」という概念をセミナーで熟考したのも、強すぎるこだわりというトラップにハマらない練習であった。強すぎるこだわりは怒りを生む。その怒りは、周りを不快にさせる。本人にとっても、周りにとってもよくない。
時間は人間が作り出した抽象的な概念だ。動物は腕時計をしない。時を意識しない。時を感じないから未来も想像しない。自然の摂理に「時間」という概念はない。時を感じるからこそ、過去を恨んだり、過去にしがみついたりする。
また未来を憂えたり過度に期待したりする。そして、人生で起きる様々なイベントに一喜一憂する。「時」の意識は「自我」を強くし、「自我」の強さは、衝突を生む。
強すぎるこだわりに自分が捉われないようにすることが大切だ。そうすれば、自然と相互尊重されている生き方ができている。
『理念実現書作成セミナー全40回』