行きたかった学校に受からず、不合格になったあなた。
親に申し訳ないやら、自分に腹立たしいやら……。
でも、まず、勉強お疲れさま。
頑張った方も、頑張れなかった方もお疲れ様でした。
「合格」は、人生のすべてでは、ないことは断言しておきます。
特に、日本では、1年の差が、ものすごく大きなハンディのように感じる。しかし、海外に行くとわかるが、1年など、大した問題ではない。10年のブランクも大した問題ではない。
ちなみに、合格者は、大学に入ったら、「遊びまくって」と考えている学生も多い。
大いに遊べばよい。
しかし、すぐに、気づくだろう。社会に出たら、墓場まで、一生勉強だ。それは、試験に受かるための勉強ではない。
人や社会に役立つための、本当の勉強が始まるのだ。
その勉強は、苦痛かもしれないし、楽しいかもしれない。
しかし、人の役に立っている勉強であることに間違いはない。そこに、やりがいもある。
自分の見栄のためでも、親の期待のためでもない、ただ、人に役に立つための本当の勉強が始まるのだ。
実は、小学生に入った時から、その勉強をしているのだが、心が受験勉強モードになっているから、気づいていないのだ。
今やっている、国語、数学、歴史、物理、生物、化学、外国語、音楽、芸術などの一般教養は、将来何の役にも立たないと否定的に考えないでほしい。
社会に入ればわかるが、全ての教科が、実によく役に立つ。
どれだけ、多くの人が(合格者も含めて)、もっと学生の時に勉強しておけばよかったかとつぶやいているだろう。
現に、社会にでると、時間が少ない。
でも、その限りない時間の中でも、勉強を続け、「強く必要とされる人」になって輝いている人も多い。その持続的に勉強し続ける能力が今後も廃れないスキルだともいわれている。確かに、そう確信できる。
それは、受験の合格、不合格には、まったく関係ない。
受験生は、受験の合否判定が、さも、人生のすべてのように感じられるが、実際、社会にでて10年たてばわかるが、なんのことは無い、受かろうが、落ちようが関係ないことに気づく。
なぜなら、その10年で、どれだけ人の役に立つために、
能力を継続的に磨いてきたかが大事になるからだ。
たかだか、数年の受験勉強で人生が決まるのがおかしいのだ。
経営者としても、お伝えできるが、学歴では採用しない。
東大だろうが、早稲田だろうが、高卒だろうが、中卒だろうが、関係ない。
ただ、1つ。
周りの人の役に立つ人になるために、コツコツと能力を伸ばそうと努力する人と一緒に頑張りたいと思う。
試験に落ちると、がっかりする。頑張った証拠だ。
でも、絶望してはいけない。悲観してもいけない。
それは「神が与えた試練だ」という、気休めもいらない。
全力で、ぶつかって、また、全力でなくても、ただ、試験に落ちただけのことだ。
それは、長い人生のほんの一つの瞬間にすぎない。
たった1日の不合格のために、今まで頑張ってきた日々を無駄にしてはいけない。廃れてもひねくれてもいけない。「俺の人生っていつもこうなんだよな」と悲観してもいけない。
受験生なので、受験勉強のための勉強にならざるを得ないことは理解できる。
しかし、今やっている勉強は、将来あなたが社会に出て、勉強したことを役立たせようと能動的になった瞬間に勉強したことが生きてくる。
勉強してこなくても、それに気づいた瞬間から、始めればよい。
受験に落ちたあなた。
たかが、受験に落ちただけだ。
大した問題ではない。
確かに、落ちた瞬間は絶望感いっぱいだろう。
お父さん、お母さん、落ちた子供を、最後まで、信じてあげてほしい。余計な口出しはいらない。下手な励ましも、慰めもいらない。
ただ、傍らで見守ってあげてほしい。
受験は、人生の一大事でも、なんでもない。
「また、次がある」、なんて気休めもいらない。
受験など、そもそも、大した問題ではないのだ。
もう一度言おう、受験など大した問題はないのだ。耳に入ってこないだろうな。でも、そうだから仕方がない。
人の役に立つ人間になるための勉強は一生続く。
そのことを忘れないで、気楽に再チャレンジしてほしい。
はっきり言おう。今、この落ちた瞬間からスタートしているのだ。その大切なことを気づかせるために神さまに落としていただけたかもしれないよ。
人生は、受験の合否で決まらない。学校のブランドでも決まらない。
合格でも、不合格でも、どちらでも、関係ない。
どうでもいいことだ。人の役に立つ勉強を、さあ、今日からもう一度気持ちを入れ替えて頑張っていこう。
ミルキヅク