お客様は神様というフレーズがある。
三波春夫のフレーズだが、多くの経営者も、この言葉を経営に使っている。
経営者がこのフレーズを使いたい理由は、一倉定先生の「お客様第一主義」とも関連していそうだ。
そういう態度で接しないと、よいサービスができないというわけだ。
ところで、通販のアマゾンは、「顧客は常に正しい」と言っている。
「常に」、だ。
このフレーズは、奥が深い。
ジェフベソスの真意は不明だが、アマゾンがいう「顧客は常に正しい」という哲学と、「お客様は神様」という哲学は意味合いが違う。
アマゾンの態度は、顧客の理不尽に応えていくというスタンスより、理不尽さを通り越してしまうほどのサービスを提供しようとしている。そして、「利益」のほとんどを投資に回して顧客のために努力している。
一方、「お客様は神様」という態度の要求は、経営者が従業員に対してだ。
サービスの提供側の一態度を示したものだ。
だから、経営者が従業員育成のフレーズとして良く使うのだ。
しかし、昨今、あまりにも理不尽なクレーマーが多すぎるため、このフレーズが疑問視されている。
社長は「お客さまは神様」をどう考えるべきか?
さて、会社は粗利益で活動できている。その粗利益の発生は、お客様が代金を支払ったその瞬間だとランチェスターの竹田氏が言っている。その通りだ。
お客様に代金を支払ってもらうためには、お客様を神様のように扱うぐらいでないと、他にいってしまう。それが社長の懸念だ。
なぜ懸念するかと言えば、社長は従業員に給与の支払い義務があるからだ。何としても粗利益を確保しないと支払えない。
だから、従業員のお客様に対する態度にハラハラドキドキするシーンがあると、居てもたってもいられなくなる。
従業員教育が悪い、と言ってしまえばそれまでだが、教育ではなんともできない事情も多くある。社長はそこに苦悩している。
尽くすべき顧客は誰なのか?戦略を熟考せよ
ところで、お客様とは誰なのか?
社長は、商品サービスを提供するが、「ターゲット顧客」が明確に定まっていないと、「お客様は神様フレーズ」に翻弄される。
ミルキヅクの戦略の定義は、「誰に」と「何を」を決めること。
社長の中で、「誰に」というターゲットが明確がイメージできていないと、誰もが神様扱いの対象となってしまう。
確かに、ピーター・ドラッカーが言うように、買わなかった人の中にこそヒントがあると捉えれば、お客様以外も神様のように扱うことは大切かもしれない。
しかし、まずは、ターゲットを明確にし、その人たちが喜ぶ商品サービスを徹底して磨いて提供するのが基本だ。
そんな中でも、理不尽な要求も多い。理不尽な要求によって製品サービスの焦点がぼけないように気を付けなければいけない。
お客様は神様だと言う前に……
根本に立ち返ると、お客様は神様ではない。
我々は、消費者であると同時に生産者でもある
モノを買って消費できるということは、「お金」があるということだ。
「お金」は基本的に、「労働」、つまり、付加価値提供によって発生する。
「労働」とは、社会生活における役割分担のことだ。
お客様は神様だという主張するならば、購買者も生産者に対して神様であるべきだ。
一生産者が、一消費者に立場が変わったからと、神様扱いされるのはおかしい。
少なくとも、生産者に神様扱いを求めるならば、消費者としての神様的な態度もあるはずだ。
それは、役割分担を果たし切ろうと奮闘する生産者に対する応援であり、敬意である。そして、自らも生産者として役割分担を果たすという真摯な態度である。
ところで、三波春夫が言ったお客様は神様の真意は?
お客様は神様フレーズを使う社長は多いが、もともとは、三波春夫の哲学だ。
彼は言う。
私が舞台に立つとき、敬虔な心で神に手を合わせたときと同様に、心を昇華しなければ真実の藝は出来ない
つまり、このフレーズは、彼が役割分担として果たすべき「芸」に対する真摯な態度を表したものだ。
社長も同様に、「経営の舞台に立つとき、敬虔な心で神に手を合わせたときと同様に、心を昇華しなければ真実の経営はできない」と言えそうだ。
社長・経営者は、従業員に、「お客様は神様」という哲学を示す前に、己自身に邪念がないか内省してほしい。
経営の神様、稲盛和夫氏も次のフレーズで神聖な精神を持って経営を行なった。
動機善なりや、私心なかりしか 稲盛和夫
ミルキヅク