心臓に手を当てると、ドクドクと鼓動が感じられる。生きている証だ。朝、目覚めたら、まだ生きていることになる。目覚めない日が来る時もある。死人は魂が抜けた人形のようになる。さっきまであった命はどこへ行ったのか?
息を止めて1分もすれば、ちょっとした生命の危機を感じられるが、我々は普段、強く「命」を意識しない。命がある限り、我々は、体というツールを使って、様々な活動ができる。命はエネルギーだ。
幸せの定義の中で、「幸せとは命あること」と腹に落とし込んだ。命あることは、確かに幸せだ。しかし、ここでいう幸せとは、嬉しいという感情的なものではなくもっと厳粛なモノだ。
命は貴重で、かつ人生は短い。せいぜい生きて年間カレンダー100枚分だ。
人生が90年ならばこんな表で表せる。あなたはどの時点にいるだろうか?
「今を生きろ」という誘惑
命が短いからこそ、「今を生きろ!」という何ともカッコいいフレーズに、なんとなく生きている人が敏感に反応する。目を輝かせて今を生きる人に憧れと嫉妬を抱く。
しかし、一方で、命の貴重さを主張しすぎるがゆえに、逆に命を傷つけている場合もある。「人生は一度」と言われる。長く細く生きたい人もあれば、短く太く生きたい人もいる。どちらの人生も自由なのだが、一つ大事な事実がある。
「どうせ一度の人生なら、やりたいことをやって死んでいく」という身勝手な人生観で、多くの人を不幸にする場合もあるという事実だ。
人生が一度だと感じているのは人間だけだ。それも、「自我」というやっかいな虫が悪さをする。「自我」は、「時間」という、これまた人間が作った人工概念と合わさり人間を惑わせる。そして人生を焦らせる。人生は一度だよ。二度と無いよと。
自然の摂理に急ぎなし
本来、自然の摂理に急ぎや特急は無いのだ。人間だけが命を意識し急いでいる。急ぎや特急は、人間の欲から発生する。人は急ぐことで大事なモノを見失しなったり傷つけたりする。
例えば、なりふり構わず会社を大きくする社長がいる。まわりの人格を軽視し、自分の夢の奴隷とする。一見華やかに見える成功の裏で多くの涙が流されている。悲しみや恨みの怨念が行き場無く漂っている。そんな涙を感じることなく、人生は一度だからとひたすら夢を追い続ける。しかし、それは成功とは呼ばない。
命は他の生命によって生かされている。その前提を忘れて無謀に生きるのは理想ではない。我々が食べている食事のほとんどすべては、他の生命だ。それを真摯に受け止めなければいけない。
この生かされている命の使い方を順番に説明しているが、時に、命の尊さは間違って解釈される場合も多い。「人生は一度きり」という誘惑で大切なモノを見失ってはいけない。人間も自然の摂理の一つに過ぎない。全世界で70億の鼓動がなっている。他の生命を譲りうけて。
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