何のために生きているのか?

結論

明確な答えがわかっても、課題は次から次にやってくる。

「人は何のために生きるのか?」の定番回答

 

「人は何のために生きているか?」

誰しも、一度は、考えたことがある命題だろう。

 

上記の問いの、典型的な答えは以下のとおりだ。

① 人に愛を届けるため

② 人生を楽しむため

③ 宇宙の進化発展に貢献するため

④ 地球環境を維持するため

⑤ 自分の一生を悔いなく生きるため

 もっともらしい。

 

人生に生きる目的などない!?

また、ある人は、「生まれてくることに目的などない。そんなことを考える暇があったら、働け!」という。

 

しかし、人類は遠くない未来において、働かなくても生きていける時代に入るだろう。働かなくなって余暇時間が増えると、「人は何のために生きているか」という問いをゆっくり考え出すだろうか?きっと、しないだろう。

 

さて、 「人は何のために生きているか」を問う前に、それを考えるきっかけとなった出来事を冷静に分析すると良い。

 

「人は何のために生きるのか」が頭をよぎるきっかけとは?

「人は何のために生きているか」を問い始めるのは、次の状態の時が多くないだろうか?

  • つらすぎる体験
  • 生活苦
  • 裏切り
  • 虚無感
  • 孤独感
  • 大失敗した時

そして、この問いの適切な答えが得られれば、心が楽になると思ってないだろうか?

 

多くの場合、「人は何のために生きているか」という問いは、大きな失敗をしたり、裏切られたり、やりがいが感じられなかった時の現実逃避として問われる場合も多い。

 

一方、困難が解決されてしまえばそんな難しい哲学など考えないかもしれない。

 

食物連鎖の頂点にいる意味 

人間は「食物連鎖」の頂点に位置する。毎日の食事は他の命。我々は他の命によって生かされている。

 

その生かされた命をどう使うべきか。

 

答えは神様に聞かないとわからないが、4つ提案したい。

 

1.無条件の奉仕(役割分担を果たす)

一つ目が、他者に対する無条件の奉仕だ。役割分担を果たすと言い換えてもよい。

 

食物連鎖の本質は弱肉強食ではなくむしろ逆だ。すなわち、弱いから食べられるのではなく、他を生かすためにその命で無条件の奉仕をしているのだ。

 

名作アニメの「アンパンマン」で、アンパンマンの顔が食べられるシーンがあるが、これは、無条件の奉仕の意味が込められていると感じる。

 

アンパンマンの歌詞は哲学的だ。ぜひ、ワンフレーズずつ吟味してほしい。

 

「人は何のために生きているか」のヒントになるキーワードがたくさんある。 やさしさ、笑顔、勇気、愛、奉仕…

 

2.自然に涙が出ることのために命を使う

命をどう使うべきかの2番目は、自然に涙が出ることのためにである。

 

あなたは何を見た時、感じた時に涙が自然と溢れるだろう。涙はウソをつかない。人によって、自然と涙があふれる対象は人によって違う。涙があふれる対象があなたの本心だ。

 

ミルキヅクの場合は、勇気を出して一歩を踏み出す人や、自らの命を顧みず尽くす行為に涙があふれる。

 

3.技術や心の進化のために命を使う

3つ目の命の使い方は、技術や心の進化のためである。

 

人は技術を常に進化させている。今は火星に行く技術を確立させている。

 

また「心」も同時に進化させている。人の喜怒哀楽は不変だが倫理観はゆっくりであれ向上している。

 

4.互いを尊重するために命を使う

最後に、命の使い方というよりは態度になるが、相互尊重しながら生きるということだ。

 

人はいろいろ。考え方も千差万別。また、正義の概念は時代や立ち場によって変わる。

 

たとえ、好き嫌いがあっても、とりあえず、すべてまとめて「尊重する」姿勢が大事だ。

 

といっても、とても難しい。

 

実は、相互尊重という言葉は他者を意識しているが、本当に向き合うべきはうべきは己の心だ。己が自らの価値観に拘束されない時、自然と相互尊重の状態になっているだろう。

 

傲慢な自問自答

「何のために生きているか?」という尊い問いは、実は傲慢な問いなのかもしれない。自然の摂理を越えた、一人よがりな議論なのかもしれない。

 

よく考えてみると、この問いは強すぎる自我から発生している。というのも、人間以外の動物は、そもそも「何のために生きているか?」など考えているようには思えない。

 

人間も動物であり、自然の摂理の一部に過ぎない。

 

「生きる目的」と「死なない現実」のジレンマ

今後、人類は技術進歩により「死」を克服するだろう。

 

 「人は何のために生きているか」の問いは、人が死ぬことが前提の問いである。

 

人は死ぬからこそ、充実した人生を送るために人生の意味を探したくなる。

 

しかし、人が不老不死を手に入れた時、人は人生の意味を考えるだろうか?おそらく、今より深刻にこの哲学的な問いがあなたを苦しめると予想している。

 

自我を捨て去った人でさえ、生きることが苦痛に感じるに違いない。

 

人類は今、自然の摂理を外れようとしている。そして、不老不死を得る代償として、「何のために生きているのか」という究極の質問を永遠に突きつけられることになるだろう。

 

永遠の死も、永遠の生も、恐怖に変わりない。そして、永遠に生き続けるという恐怖を克服するために「何のために生きているか?」という問いは「いかに死ぬべきか?」に変わるのではないか。

 

「いかに死すべきか?」これはまさしく死生観のことである。

 

まとめ

「何のために生きているか」などという難しい哲学を考えるくらいなら、明石家さんまの「生きているだけで丸儲け」と感じならが日々を送ることで十分である。

 

「何のために生きているか」の答えがわからない時は、ケビンカーターの今にも死にゆく少女「ハゲワシと少女」の写真を見てほしい。

 

地獄の底で這いつくばってでも必死で生きている人が大勢いる。

 

五体満足でない人ですら笑顔で世のため人のために生きている人が大勢いる。

 

大震災や事故で一瞬にして全てを無くした人もいる。

 

絶望の中でも精一杯生きる人たちがいる。

 

ましてや、健康でありながら空腹でもないのに「何のために生きているか?」と悠長に問う自分がいるなら、目の前のことに全力でぶつかってみるとよい。

 

その時、あなたの答えがわかるだろう。

 

究極の解決策

「何のために?」という意味付けは人間特有の行為。「意味」とは言語を獲得した人間だけが作り出している人工物。「生きている」とか「死んでいる」という概念も人間が作った概念。その疑問を真に解決するには、その問いが出てくる自我を放棄すること。

 

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