セキュリティーって、そもそも何?
『セキュリティー』という言葉がある。
「守る」べきものがあるから、セキュリティーという概念がある。
しかし、結論から言えば、そもそも、人間には隠すべき事など無いのだ。
隠す行為は、「悪だくみ」や「卑しい心」の裏返しだ。
自然の摂理に「セキュリティー」概念などない
この世の中が、AとBしか存在しないと仮定する。
どちらかが殺し合えば、子孫は生まれず、そこで人類終わりだ。
だから、まずは、共存共栄が原理原則だ。
そうならば、次は、支配か、フラットかだ。
人には能力の差があるので、基本、フラットは難しい。
能力のある者が、ないモノを支配する傾向にある。
時に、倫理観の高い者は、フラットな生き方を心掛ける。
むしろ、相手よりも、へりくだる場合もある。尊い。
能力の差は生まれながらある。
しかし、男と女は、能力の差というより、体質的な差がある。
表裏一体であり、片方が欠けては、人類は永続しない。
だから、能力がある方が、無い方を支配したい気持ちはわかるが、基本は、フラットであることが自然界の原則だ。
セキュリティーとは何か?
さて、自然界は、フラットな社会が原理原則だとすると、フラットな社会において、セキュリティーとは何であろう?
AがBから守りたいもの
BがAから守りたいもの
それらは何であろうか?
血液型?
信条?
財産?
性癖?
国民番号?
いわゆるプライバシーと言われるいろいろなものが考えられるが、すべて、基本的には隠す必要のないものかもしれない。
隠したところで意味のないものだ。
なぜなら、AとBは、いずれにせよ協力してやっていかなければいけないからだ。
戦争とセキュリティー
現在、物理的な戦争から、情報戦争に移ったと言われている。
だからこそ、「セキュリティー」が重要視される。
情報を奪う技術が武器であり、情報を守る技術が防具である。
IOTによって、モノと人の生活が繋がっている。
検索履歴で人の信条や嗜好や心が把握され、行動履歴もGPSで把握されている。
そのうち、生まれた直後にチップが埋め込まれ、個人情報が支配される。
人は、すでに情報に支配されいる。
しかし、支配されても問題ないのだ。
なぜなら、そもそも、隠すべき情報など、はじめから無いのだから。
人間は、基本的に、丸裸で生まれ、丸裸で死んでいく。
セキュリティー技術を高める競争をしているが、それをして、守るべきものは何であろうか?
核戦争のボタンがハッキングされては困るという不安もある。
そういった不安は現実にあるとしても、原理原則から言えば、核戦争は、どちらか片方の消滅か両方の消滅を意味する。
それは、自然の摂理ではない。
または、核抑止力の通り、どちらか片方の『支配』を意味する。
しかし、『支配』も自然の摂理ではないと論じた。
無駄なことにお金を浪費するな
人はセキュリティー技術にお金を費やしすぎている。
軍備力の強化も同じ意味だ。
本来、何も隠すべきものは無いのに、疑心暗鬼でGDPの一定割合を軍事費に投資する。
まったく無駄なことだ。
確かに、暴走する者のための予備としての軍備は必要かもしれない。
しかし、無料でできる最強の軍備があるのだ。
それは、人類総丸裸作戦だ。
すなわち、すべての情報の公開だ。
人類の全員の情報が公開された状態では、人として、後は、共存共栄の方法を探るしかないのだ。
情報公開と特許
例えば、特許。
企業は、自ら考え出したアイデアを囲いこもうとする。
しかし、自社の利益を守るより、社会全体の進化を遅らせているという弊害の方が強いこともある。
特許も、アイデアを思い付いた瞬間にネット上にすべて公開してしまえばよいのだ。
理由は、後述する。
情報公開と犯罪
例えば、詐欺事件。
Aが詐欺を企んでいるとする。
Aが詐欺師でその企みを全部Bにオープンにしたらどうだろうか?
AとBしかいない世の中で、AがBのxxを狙っているとBに告白したとする。
Bは、騙されて奪われる前に、無料でAにあげればいいのだ。
そうすると、Aは気づくだろう。
「なんだ、詐欺する必要ないじゃん」と。
そうすると、人類は、結局は、共存共栄が一番効果的で効率的であると悟るだろう。
そして、一番大事なのは、どの立場や身分であれ、自分の役割を見つけ、その役割に必要な技術を誰よりも進化させ、命をかけて世のために貢献していくことだと理解するようになるだろう。
この世は役割分担の果し合いだ。
この原理原則が心底理解できれば、競争など発生しない。
なぜなら、命をかけた者には、かなわないからだ。
倒れても、倒れても、何度も、お化けのように、立ち上がってくる。
その原動力は、世のため、人のためという誓いだ。
それを、使命という。
命を使うべき対象を見つけた人は最強だ。隠し事の必要がない。
隠し事が、世の中を非効率にする。
最強のセキュリティーは、前もって、さらけ出すこと
はたして、我々は、何を守るというのだ?
本来、守るべきものなど、ないのだ。
自然の摂理に、隠し事はない。
太陽は、その星の内部に、小判でも隠し持っているのだろうか。
太陽は、ただ一心不乱に、燃えつづけているだけだ。
そして、我々は、太陽の無償の奉仕の恵みを受けて、生きられている。
それが自然の摂理であり、人間の本来の生き方の本質でもある。
個人情報保護法などと言われているが、守るべき情報など、自然の摂理から言えば、ないのだ。
個人の思想も、趣味も、血液も、恥ずかしいことも、ぜんぶオープンにするとどんな社会になるだろう。
羞恥心はどこからくる?
羞恥心は、どこから発生するのか?
やましい心があると、羞恥心がでる。
やましい心は、なぜ発生する?
常識という判断基準が与えられると発生する。
常識との距離が羞恥心だ。
しかし、そもそも、「常識」も相対的な怪しい概念だ。
人が作った常識は、人によって覆されてきた。
99.9%の人は、誰かが作った常識のマインドコントロールで生きている。
そして、その相対的な常識を基準に作った、価値判断で、自分自身が勝手に、羞恥心ややましい心を抱いて隠ぺい工作をする。
そもそも、自然の摂理に、「常識」などないのだ。
完全無欠のセキュリティー対策は
セキュリティーの完全無欠の施策は、情報公開だ。
情報を隠さないことだ。ろくなことはない。
偽装事件も、各種、ニュースででてくる問題も、ほとんどが、情報の隠ぺいからくるものだ。
自然の摂理はオープンを要求するから、隠ぺいは暴かれるのだ。
ミルキヅク