株、不動産、債権、為替、コモディティーなど、投資対象はたくさんある。投資(お金)が、お金を生むというわけだ。
しかし、この仕組みは、昔からどうしても腑に落ちないため、経済学者ではないが、自問自答してみた。
なぜなら、この世にAとBの2人しかいないと仮定すると、お金がお金を生むわけがないのだ。
以下、自問自答したことを紹介したい。
お金はお金を生まない
【仮定条件 】
1.世の中に2人しかいないと仮定
AさんとBさん
2.それぞれの役割は以下の通りとする。
Aさんは、服作り
Bさんは、食糧づくり
3.共に、それらが無いと、「空腹」と、「寒さ」で死ぬと仮定
基本は等価交換が原則
お金(貨幣)という仕組みが無かった時代は、ぶつぶつ交換の等価交換が基本だ。
わかりやすいように、お金=付加価値=数値で例える。
例えば、
AがBに100の付加価値を提供する。(Aは、Bの服を作る)
BがAに100の付加価値を提供する。(Bは、Aの食糧を作る)
次の年、
Aは創意工夫をし、150の付加価値を提供できるようになった。
一方、Bは相変わらず100の付加価値しか提供できなかった。
AとBの付加価値を交換すると、Aに50の付加価値が余った。
これが、いわゆるAの投資の原資だ。
そこで、通貨発行機能がある銀行が、50という貨幣を発行してAに渡した。
通貨発行機関が無ければ、これで終わり。
Aは、50の余剰があっても、そもそもBに購買力がない。
よって、Aのお金はお金を生まない。
*通貨発行機関自体不思議な存在だが、これがお金が最大の発明と言われる理由
以下、通貨発行機関がある事を前提にした自問自答。
→ A
Aは、この50を使って、投資したい(儲けたい)と考えた。
しかし、投資対象はBしかいない。
AがBに50投資すると、Bは少なくとも150作れることになる。
100(本来Bが作れる力)+ 50(投資でAから得た分)
投資なので、Aは投資額の50以上のリターンを期待している。
つまり、Bは、少なくとも、150より高い付加価値を創出しなければいけない。
ただし、ここで考えないといけない。
リターンは得られる?
まず、Aが50をBに投資すると、
A=100
B=150
という状態になる。
Bが仮に、150という付加価値のあるものを作っても、Aの購買力は100しかないので、買えない。
では、20投資すると、
Aは、100 +(50-20) = 130
Bは、100 + 20 =120
この場合、Aは購買力があるので、買える。仮に、Aの投資を25にすると、AもBも125となり、等価交換が成立する。だが、Aは25投資して25のリターンなので、利息0%だ。投資した意味がない。
相手はそれを欲しがっているの?
話しを戻し、AがBに50の投資をしたとする。しかし、Bがそれを要求していなかったらどうだろうか?
言い変えれば、150の付加価値の服ではなく、100の服で十分満足だとBが思っていたら、Aの創意工夫は、ただの独善に終わる。ビジネスでは、購入してもらって初めて、付加価値(粗利益)が発生する。お客にニーズがなければ売れないのだ。
対等のモノを提供できる力はあるの?
また、今の話をBの視点から見ると、Aに対しても150の食物を作る力が無いと等価交換は成立しない。つまり、求めるニーズと作る能力が一致だ。
ここで仮に、Bが、「100の付加価値で十分生きていけるから、今のままでいい」と言ったら、AはBが要求する付加価値である『100』以上に努力する必要が無いともいえる。
Aの意図に関わらず、Bは買わないし、買えないからだ。
結果、Aの余剰になった50の付加価値の投資先が無くなる。Aの50は、眠った財産となる。宝の持ち腐れだ。Aの50という余剰のお金は、次のお金を生まない。
Aは、世の中をより良くしたいというモチベーションが高くても、お金持ちにはなれないということだ。
*蛇足
実際の社会では、Aの付加価値創出とBの購買したいニーズを満たすため、通貨発行機関が、公共投資という名目を付けて、AとBにそれぞれ50を落とす政策が行われる。
これにより、BはAから150を買える。ただし、Bは50の付加価値を創出していないので、付加価値が無いのに発行した通貨分、貨幣価値が下がり、インフレする。
一方で、こんな考え方もできる。
Aが自分の事はすべて自分で行い、Bを必要としなかったら?
最初の仮説で、AとBの役割分担を分けたが、例えば、Aが創意工夫の達人だったとする。
初年度AはBに100の付加価値を提供し、BはAに100の付加価値を提供した。
翌年、BはAに150を求めなかったので、Aは従来どおり100作った。
しかし、以前と違うところは、Aは今回は、作り方を工夫したので、100作るのに、1年かかっていたものが、半年でできるようになった。
そうやって、Aは、毎年作り方を進化させた。
ある年から、Aは、限りなく0秒に近い時間で100の付加価値を創出できるようになった。
機械化だ。ボタン一つでそれができるようになった。
さらに言えば、ボタンを押すまでに1,2秒かかっていたものが、思った瞬間に付加価値100が創出できるよう改良した。*今は、思考だけでモノを動かせる機械がある
AがBの付加価値行為もやれるようになったら…。
時間が余ったAがしたことは、Bが本来行っていた食物づくりだ。
Aは、空いた時間でせっせと自分の食物を作った。
Bは100の食糧を作れるが、Aが交換してくれない。Aは自分で食糧が作れるからだ。
Bは服を買いたいが、Aが食物を交換してくれないので、服を買うお金がない。
Bは、100の食糧づくりの余力を自分の服作りに注いだ。しかし、服づくりに慣れていないため、Bは想像以上に時間がかかり、Aが作ってくれるような服が作れなかった。
作れたとしてもごくわずかだった。
そのBの行動は、Bが本来得意だった、食糧づくりにも影響を与えた。
Bは結局、衰退し、ついには、寒さで亡くなった。
Bは、「今の生活で十分だ」と思っていたが、Aが創意工夫するほど、Bが死に近づいた。
Bのような「今の生活で十分だ」というモチベーションの人は、世の中多いと思うが、さて、Bのような生き方をしているあなた、
「私は、今のままの生活でいい」と素直に言えるだろうか?
Bを助けなかったAを残忍だする議論もあるがこの議論は後程行う。
ちなみに、Bが亡くなった後、Aも生殖活動ができなくなり、結局、 人類は滅びた。
何が大切なのだろうか?
投資が成立するための2つの要件
投資の話に戻すが、結局、Aが投資できるためには次の2点が前提だ。
- お互いに同レベルの付加価値を欲している
- お互いに同等の価値を提供する技術がある
言い方を変えれば、「生産者」としても、「消費者」としても、対象相手と同じレベルを目指すということだ。
余談:「欲」と投資行為
Bのモチベーションにより、投資が制限されたAは、自らが全ての役割を行った。
食糧も、服も作った。
ここにおけるAの行動モチベーションの原点は、
「命を守ること」と
「快適さの追求」だ。
人は基本的に、「不快、不便なモノをより快適、便利にしたい」という欲求がある。
快適さや便利さの追求のことを俗に、「欲」という。先ほどの、AがBに投資できる2つの前提条件もBの欲がなければ始まらない。
そして、「欲」を持つことができるのも、「命」があることが前提なので、欲は、命に包含されると考えられる。
無欲な世界では投資行為は成立しない
例えば、世の中の大半が、生きるモチベーションが低く、「死んでもよい」と考えている人が多いと投資行為は成立しにくい。また、「無欲」な人が世界中に増えると投資行為は成立しにくい。
生き方の違いによる投資行為の意味
一方、快適さの追求を「欲」というなら、その「欲」で、進化し続けると、同じ成果を、ほぼ0秒に近い時間でできる世界が実現する。
例えば、手洗いが洗濯機になり、今は、ボタン一つで完了する。
携帯電話も、送信ボタン一つで、瞬時にメッセージを届ける。昔は、馬で手紙を運んでとか飛脚とか…そんな感じである。
一方、無欲な人が集まる社会では、「木から落ちたリンゴを食べていればよい」ということになる。付加価値を求めない0の行き方。 仙人的な生き方と言えるだろうか。
他方で、「欲」を源泉として、進化の先にたどり着いた≒0秒で思いが具現化される技術。これを全知全能の神に近づく行為と言おう
同じ0でも、自然のまま生きることと、創造力を駆使して、無限対数を0に近づけていくことの意味は、まったく違う。
努力改善をせず、自然のなすがままに生きる。動物がそうやって生きているのだから、人間もそのように生きることはできる。
かたや、進化を続けお互いが快適に暮らせる世の中にするために努力する。言い方を変えれば、GDPが0円でも成立する社会だ。それらのどちらを選ぶかは、結局は、生き方の違いだ。
投資の話に戻すが、結局、Aの投資は、Bの生き方に左右される。
お金がお金を生む本当の意味は?自然摂理に従う本来の投資行為とは?
そもそも、考えてみると、AがBに対して付加価値活動ができたのも、BがAに対して付加価値活動ができたのも、最初の原資は、自然の恵みだ。
それが、リンゴであれ、木の実であれ、そこから、AもBも、命(活動エネルギー)を確保できたらからこそ、付加価値活動ができたのだ。食べ物がなく、貧窮したら、動く気力すらない。
つまり、投資の一番初めは、「自然界からの無料の投資」だ。自然界の恵み(自然界の人間への投資)は人間に見返りを求めていない。
常に与え続けることを行っている。人間が行う付加価値の活動エネルギーの一番初めの原資は、自然界より無料提供されているという事実がある。それが原理原則だ。
人間も、自然の摂理に従う生き物なので、「無料で与える」という切り口がうまく行くに違いない。つまり、投資とは、お金がお金を生む仕組みではなく、すべてを無料にしても全人類が生活できる、見返りを期待しない自然の法則に従ったお金の使い方の事だ。
Aの50は、本来どのように使うべきだったか?
先の例で、Aは改善の達人で、すべて自分でできるようになったAがBを助けないのは残酷だという議論があったが、Aが得た50というお金は、本来は、AとBの価値ができるだけ等価交換になるようにBのために使ってあげることが真の投資だといえる。
まさか!「それでは、儲からないじゃないか!」と多くの人が思うだろう。
しかし、よく考えてほしい。
本当のお金持ちとは、自分が無一文でも、自分のために無償で力を貸してくれる人の数である。
極論、それが、全人口だったらどうだろう。あなたは、無敵だ。
例えば、マザーテレサのような人が全世界に呼びかければ、世界一の富豪よりも多くのお金と労働力が集まるに違いないと信じている。
あなたが求めれば、全人口があなたに力を貸してくれる。最強すぎる。それこそが大金持ちだ。それが「投資」の原点だと思う。
貨幣の無い世界はより顕著にわかるが、仮にAがBのために無償で提供すれば、通常の人間であれば、Bは無償でうけた対価に対して恩を感じるはずだ。
もちろん、B自身がAと同じ付加価値提供力を得たいと望んでいる時、かつ、自分でそれをする資金や能力がない時の話しであるが。
まとめ
真の「投資」とは、相手の付加価値創出行為を助ける無償のお金の使い方だ。それを『太陽的投資』とでも呼ぼう。
それによって、すべてを無料にしても人類が生きていける仕組みが構築されていくだろう。 言い換えれば、世界GDPが0円でも世の中が平和になる金の使い方だ。そのような信念で投資活動を行えば、結果として億万長者になる確率が増えているだろう。
王道の投資の哲学をあなたなりに落とし込んで、「金儲け」から入らない、王道の投資を深堀してほしい。
ミルキヅク