
子育て、人間関係で心が苦しい。
そんな方は多いはずだ。
そこで、心が軽くなる考え方を紹介したい。
未来は決まっている
まず前提として、未来は決まっていると仮定しよう。
それが真実かどうかの話ではない。
そう仮定して物事を捉えると気楽になるという話だ。
すると、これから起きる未来の出来事は必然であり避けられない。
であれば、なるようにしかならない。
だから、未来の事を心配しても仕方ない。
過去には戻れない
過去には戻れない。
やり直せないので、後悔しても仕方ない。
また、誰かのせいにしても、過去は変わらない。
映画のフィルムのように現実は過去に流れていく。
そんな中でコントロールできることは、自分の考え方だけ。
相手がいることが前提
もしも宇宙が自分一人だけの世界だと仮定しよう。
まわりに見える人も自然も現象も、すべてプログラミング情報だとする。
そんな世界で、自分の存在理由を見つけ出せるだろうか?
存在理由は、人間関係の中でしか生まれない。
あらゆる問題も、人間関係の中で生じる。
相手がいることが前提だが、あえて、その相手は自分を写し出す鏡と捉えて見る。
相手=自分。
すると、一人だけの世界と同一視できる。
その世界において、自分しかいないのだから、問題は何も発生しない。
発生したなら、それは自分の頭の中で作り出している映像に過ぎない。
コントロールできるのは自分の心だけ
人は思い通りに動かない。
なのに、人を変えようとし、それができない時、怒りや悲しみで苦しむ。
相手は、その苦しみを何とも思っていない。
問題を問題としているのは自分の心。
問題を問題と認識しなければ、問題など発生しない。
しかし、それができないからつらい。
そこで、次のように考えてみる。
この世は、常に完璧であり最適
生きとし生けるもの、すべての動きは、毎時、最適化されていると仮定してみる。
すると、過去の判断ミスなど一切存在しないことになる。
本人の後悔とは関係なく、常にベストな判断で行動をしている。
「悩む」という行為も、悩むべくして起きている。
だから、悩みはそのまま受け入れればよい。
天才バカボンのセリフ「これでいいのだ」、である。
人間は失敗を通して成長すると考えるより、人は常に完全体と捉えて見る。
人は成長も進化もしない。
もともと完成しているが、埃で見えなくなっているだけ。
その埃を取ることが、成長や進化のように見えているだけと捉えて見る。
過去の記憶の解釈は変更する言葉
毎時、本人の意思とは無関係に、行動が最適化されているなら、何も問題などないのではないか。
だから、問題を問題と捉えなくてもいいはず。
しかし、やはり、問題と捉えてしまう。
なんとかならないものか。
なる。
過去の記憶の解釈を変更することによってである。
現在の行動は過去の記憶に引きずられる。
例えば、嫌な経験をしたら、それを避けようとする。
そこで、「嫌な経験」という過去は変えられないが、その解釈を変えることはいつでもできる。
具体的にはどうするか?
過去の記憶の解釈を変更する、2つの魔法の言葉を紹介したい。
その2つの言葉とは、「ありがとう」と「ごめん、なさい」である。
通常の使われ方ではないので、注意して読み進めてほしい。
命に「ありがとう」
ここでいう「ありがとう」とは、単なる感謝ではなく、命があることに対する畏怖の念である。
今、自分が存在している。
ということは、先祖を含め、過去に一度も命の断絶が起きなかったことを意味する。
命が途切れる危機は、過去、何度もあったはずなのに、すべてを切り抜けた。
それ自体、有り得ないことだ。
過去から脈々と繋がっている命が有難いのであり、それを常に実感している状態が「ありがとう」の意味である。
自分の命に対しても、また、自分の鏡である相手の命に対しても「ありがとう」と。
「命」には過去を生き抜いてきた力強さが備わっている。
命が存在している。
その尊い現実を実感した時、過去に囚われなくなる。
そして、過去の出来事は感謝に変わる。
「ごめん・なさい」(命令形)
次に、「ごめん、なさい」という言葉。
「ごめんなさい」ではなく、「ごめん、なさい」だ。
ごめんなさいは謝罪。
「ごめん、なさい。」はそうではない。
ごめんとは、ご免、つまり、許すということ。
何を許すのか?
自分の心を、である。
誰かに対して怒り、恨み、嫉妬、悲しみなどを抱いている自分の心を許すという意味である。
「ごめん、なさい」は命令形。
早く起きなさい。
勉強しなさい。
お風呂入りなさい。
同じように、「ごめん、なさい」である。
自分の心を許しなさいという命令である。
自分を許せば周りが変わる
相手に対する謝罪の意味の「ごめんなさい」は、競争心やプライドで言えないことがある。
それはそれでよい。
一方で、自分の心に対してなら、言いやすいはずだ。
ここでの「ごめん、なさい」は、競争心やプライドでブロックされた自分の心を許しなさいと命令しているのだ。
同時に、「ごめん、なさい」と言われた人は当然、自分に対して言われていると思う。
すると、態度が軟化する。
吉本新喜劇のアキのネタのように、相手役が謝ると、「いいよぅ。」と場がなごむ。
自分の心に「ごめん、なさい」をしているだけなのに、相手は相手に対して謝罪されていると思っている。
自分の心を許すことができれば、もはや、戦う相手は消える。
敵とは、自分の心が作り出す幻影に過ぎないのだから。
目を見て話す
ここで、1つ大事なことがある。
この2つの言葉「ありがとう」と「ごめん、なさい」を使う時は、必ず目を見ること。
相手は自分を写し出す鏡。だから相手の目を見るとは、自分の目を見ていると同じこと。
親から子供、先生から生徒、上司から部下など、相手の目を見て「ありがとう」、「ごめん、なさい」を言ってみる。
効果は絶大だ。
自己肯定感など関係ない
「ありがとう」と「ごめん、なさい」をマスターすれば、自己受容だの、自己肯定感だの、愛情だの、社会貢献だの、使命だの、必要なくなる。
そういった息苦しい価値観から解放されるだろう。
命に「ありがとう」、心に「ごめん、なさい」という許しを与え続けること。
それだけでいいのだ。
子育てと不登校について
ここで、子育ておよび不登校について深堀したい。
不登校を解決するために、フロイト、ロジャース、アイゼンク、ベックの心理学を学ぶ人もいるだろう。
しかし、前提として、不登校はそもそも問題なのか?
「不登校」は、それが問題だと思っている人の問題である。
親も子供も先生も、不登校が問題と思っていなければ、何も問題はないのである。
不登校は問題か?
仮に、親が不登校を問題だと考えているとしよう。
その親は、不登校は
①学力
②人格形成
に悪影響があるからと考えているとしよう。
まず、①学力については、学校の授業より良質なコンテンツはネット上で享受できる。
だから、こちらに選択権のない先生の授業を強要される必要はない。
②人格形成については、無理して学校に行かせることで、かえって本人の人格が崩壊する恐れもある。
子供が不登校を問題と捉えていないのに、親が問題と捉え、登校という拷問で子供の精神を破壊させてしまうケースは少なくない。
何も学校だけが人格形成する場ではない。
不登校を解消したいと本人が思い、親に助けを求めてきた時のみ、一緒に考えればよいのであって、それ以外は見守るだけでよい。
見守るとは、不登校を問題だと思っている自分の心に「ごめん、なさい」をすること。
また、子供の命に対しては、ただそこ存在しているだけで「ありがとう」を実感することだ。
未来は決まっている。
もがいても、あがいても、なるようにしかならない。
不登校とは単に学校に登校していない、ただそれだけの事。
そう捉えることができた瞬間、心から問題が消える。
義務教育だからとか、学校に行くことは子供の仕事だと言うのは、学校へ行かせたい者の理屈に過ぎない。
仮に不登校で問題が発生したなら、不登校者がそれを問題と捉えた時点から、不登校者が解決していけばよいだけである。
不登校は2つの言葉で無くなる?
では、「ありがとう」や「ごめん、なさい」をマスターすれば、不登校にならないか?
そんなことはない。
そもそも、不登校は問題ではないと考えている親の元では、不登校は普通にある。
現に、今の教育システムとニーズに乖離があり、あえて学校に行かせず別の方法で教育させている親もいる。
そもそも学校がない時代、家庭が学びの場であった。
それは誰の問題か?
まず、何かを問題だと思っている時、それは誰の心から発生している問題なのかを明確にする。
それは、親が思う問題なのか、子供が思う問題なのか。
子供が思う問題に親は関与しない。
関与すると子供の成長を阻害する。
子供の悩みを解決してあげることは、その子の生きがいや、生きる力を奪うことでもある。
酸いも甘いも含めて人生。
酸いがあるから、甘さを感じる。
その「酸い」を奪ってはいけない。
親の願望を押し付けない
親の願望、期待、体裁、プライド、価値観、こだわりを子供に押し付けてはいけない。
それらが裏切られた時、親の心が折れる。
しかしそれは、親が勝手に作り出した親の問題である。
頼まれもしないのに子供の人生に介入しないことだ。
子供の時を思い出してほしい。
こちらが求めていない親のアドバイスは煙たかったはずだ。
親は子供が力強く歩んでいけるよう見守るだけでよい。
同時に、子供も親の期待に答える必要はない。
親が期待するのは自由だが、それは親の問題である。
その期待に答える義務はない。
親はもっと自分の人生を好きに生きればよい。
口うるさい親より、人生を楽しむ親を見ている方が、はるかに子供は自立する。
親は子供の命に対して、ただ「ありがとう」を言う。
どうしても、子供に「ありがとう」が言えないなら、それができない自分の心に、「ごめん、なさい」をするだけ。
子育ては、たったそれだけでよいのだ。
「ありがとう」を感じるには
人は無くした時、大切なものがわかる。
そこで、「ありがとう」を深く理解するために、一旦、無くしてみるとよい。
たとえば、苦しくなるまで息を止めてみる。
これだけで、生きるという難しさがわかるだろう。
人は、空気がなければ一瞬で命が途絶える。
息が吸えるということは命が存在する大前提である。
孤独でいる
1人でいることも「ありがとう」の意味を実感できる。
孤独の中で自分を見つめ、命に「ありがとう」、心に「ごめん、なさい」と言う。
そして子供や周りの命に「ありがとう」を言う。
不平不満を言っても構わない。
しかし、「ありがとう」や「ごめん、なさい」ができるようになると、不平不満は減る。
そして、自分も子供も愛おしく感じられるようになる。
育児にテクニックなどいらない。
パパ、ママは、みんな子育ての素人。下手で当たり前。
子供の教育で必要なのは「ありがとう」と「ごめん、なさい」だけ。
それ以外、何もいらい。
仮に、輪廻転生が本当だと仮定しよう。
すると、子供は先祖の生まれ変わり。
だから、子供から学ぶのは親の方
親は子供を授かり命を繋ぐ。
今度は生まれ変わって命のバトンを受け取る。
その命の連鎖に「ありがとう」。
たとえ連鎖が途絶えてしまっても、命に「ありがとう」。
人生は一度きりは嘘
よく人生は一度きりと言われる。
そうではなく、命は永遠だと仮定してみよう。
そうであれば、いつ始めても遅すぎることはない。
同時に生き急ぐ必要もない。
時間は流れていないと仮定してみよう。
年をとると、今からやっても遅いと、歳のせいにして、人生の歩みを止め、子供に自分の願望を託そうとする。
託された方は、たまったもんじゃない。
人生が一度きりと思い込むと、どうせ一度の人生だからと、命を粗末に扱う。
今を生きるとは、時間に囚われている自分の心に「ごめん、なさい」をすることで、時の流れから解放されることである。
困難を困難と思わない心
人生には乗り越えられない壁がたくさんある。
乗り越えられなくても構わない。
それより、困難を困難と思わない心を獲得したい。
乗り越えられない壁があっても「ありがとう」や「ごめん、なさい」が言えるか。
いや、乗り越えられない壁が現れた時こそ、「ありがとう」や「ごめん、なさい」を言いたい。
その時、壁は、自然消滅するだろう。
自分の心を許す
何かで恨みや怒りが生じた時、ただちに自分の心に「ごめん、なさい」をする。
つまり、その恨みと怒りを許す。
自分の心を許せないと、心が重くなっていく。
心が重いと無気力になっていく。
無気力というブラックホールは心をゆがめる。
だから、「ごめん、なさい」で、心に生じるネガティブな感情を許す。
赤ちゃん ありがとうの究極
「ありがとう」、「ごめん、なさい」をマスターしているのは、赤ちゃん。
赤ちゃんは、その存在自体が「ありがとう」である。
他者に対する負の感情が一切なく、問題を問題と捉えていない。
許さなければいけない自分の心すらない。
赤ちゃんは小さなことでも笑みを浮かべる。
こちらが笑いかけるだけで、周りを幸せにする。
バカ殿さま
さて、「ありがとう」、「ごめん、なさい」を極めたと仮定する。
心が羽毛のように軽くなり、ずいぶん生きやすくなったと思う。
さらに人生を楽しむために、バカ殿さま的生き方をすすめたい。
そのために、世間体や固定観念を捨てる。
やり方は同じ。
世間体や固定観念にとらわれている自分の心を「ごめん、なさい」で許してあげるだけ。
もしも世界が自分一人だけだったら。
そして、本当に一人に1つの宇宙が与えられているのなら、自分を完全に許し、好きに生きればいい。
そう思わないだろうか?
なぜ、バカ殿の顔は白いのか?
顔は面(おも)とも言う。
面が白い。つまり、面白い。
自分のすべてを許し、面白く生きる。
「ありがとう」、「ごめん、なさい」を極めると、人生が喜劇に変わる。