プロローグ
数学ができない人のことを世間では文系と呼ぶ。
文系で国語力すらなければ何系と呼ぶのだろう。
本書では、文系にも理系にもなれなかった著者が数学を学ぶ中で「何だ、そんなことか」と理解した内容をまとめた。
高校での期末テスト2点。
ある日、学校中で恐れられていた数学の先生に呼び出された。
先生に数学ができない苦しみを吐露するとビンタが飛んできた。
奥にいる他の先生が心配そうに見ている。
さらに口答えすると分厚い本で頭を殴られた。
「お前みたいなやつは、成功しない。」と。
数学を理解したいという想いは、的外れな説教と暴行によって潰された。
数学が嫌いになる理由は様々である。
結局のところ、教える側の説明不足と、教わる側の理解不足だ。
わからないからわからない
「問題文をしっかり読め」と言われても、その問題文の意味がわからない。
数学は国語力の問題ではない。
「問題の意図をよく考えろ」と言われても、問題を作成できる知識などないから、意図なんてわからない。
「定義を理解しろ」と言われても、定義が何を言っているかわからないから苦労する。
ひっかけ問題で余計に混乱させている場合もある。
和訳がおかしい?
数学の和訳も混乱の原因だ。
関数とは何が関係しているのか?
無理数は何が無理なのか?
はたまた虚数は嘘の数なのか?
記号が意味不明
さらに、記号も難解だ。
Σ(シグマ)、∫(インテグラル)、log(ログ)など何がしたいのかわからない。
表記の不統一感もいちいち混乱させる。
例えば、かけるは記号でx。
時に・や・無しで表す。
axb、 a・b、 ab どれも同じだ。
abがa x bというかけ算という意味なら、f(x)の関数記号も、fx (x)のことかと思ってしまう。
さらに微分を意味するdxも、dxに見えるが掛け算ではないと言う。
こういったことが、いちいち理解を遠ざける。
小手先の数学
高校生活は忙しい。
数学以外にもやることがたくさんある。
本質を理解したいのに、理解する時間もない。数学以外の宿題もたくさん出る。
その内、小手先のテクニックや暗記で数学を乗り越えようとする。
心の底からわかっていないから問題が解けても気持ちが悪い。
ましてや応用問題がでればお手上げだ。こうやって数学が無味乾燥した学問になっていく。数学には感動する程の驚きがたくさんあるというのに…。
しまいには「社会に出てもサインやコサインなど使わない」といった捨てセリフを言う。
いろいろなコンテンツで数学を学び直すと「なんだ、こんな簡単なことだったのか」と思うことがしばしばある。
なぜ教科書はわかりにくいのか?
なぜ教科書はわかりやすく書かれていないのか。教科書がわかりやすすぎると、先生という存在意義が無くなるからではないかと感じたほどだ。
一方で、教科書がわかりにくいのは宿命だ。
物事を一般化するほど抽象的な表現にならざるを得ないからだ。
そこで参考書に頼るが、それらもわかりにくい。
数学ができる人とは?
本当に数学ができる人というのは、数学の定義や解き方を作りだす人。そんな人はごくわずかしかいない。
数学で点数を取る人は、過去の誰かが行った解き方を多く覚え、再現できる人ともいえる。数学力の差とは、その実行力の差である。
数学を学ぶ環境
また、学ぶ環境も数学力に影響を与える。
学ぶ環境とは、教え方のうまい先生やわかりやすい教材に出会ったなど、少なくとも数学嫌いの地雷を踏みにくい環境に身を置けたことだ。
数学は物理・化学との関係性が深い。
だから、数学ができないと連動して物理や化学も苦手になる傾向が強い。
物理・化学に限らず、数学は経済・金融・設計・経理・会計・プログラミングなどあらゆる場所で活躍している。
数学が嫌いになるとは、将来の可能性を狭めることでもある。それはもったいない。
本コンテンツは数学を真に理解している人にとっては突っ込みどころ満載だ。
正確性や厳密性の議論は専門書に任せるとして、文系で数学が苦手な30点から60点台の方に寄り添って、「なんだ、そんな簡単なことだったのか」をできるだけ多く提供できれば幸いである。